博多祇園山笠


山笠及び博多、中洲 略史

宝亀8年(757) 櫛田神社創建
大同元年(806) 空海(弘法大師)が、東長寺を開山
延喜元年(901) 右大臣菅原道真太宰府に左遷される。
延喜5年(905) 大宰府天満宮創建
延喜19年(919) 筥崎放生会始る。
寛仁3年(1019) 刀伊(とい)の博多襲来。中国東北部の女真族・刀伊が突如、対馬、壱岐、糸島、さらに博多を襲った。豪族の武士たちが奮戦し撃退した。
治永3年(1179) 正月15日、博多松囃子を取り行うとある。のち明治に入り「博多どんたく」となる。
建久6年(1195) 日本に初めて禅宗を伝えた栄西禅師が日本最初の禅寺、聖福寺を建立、日本臨済宗を開いた。
仁冶2年(1241)
  山笠の起こり
謝国明が建立寄進した承天寺の開祖・聖一国師が博多津中の人々の担ぐ施餓鬼棚に乗って甘露水をまいて疫病退散を祈願。”博多山笠”の起こり。(伝承)
文永11年(1274)
  蒙古襲来
元寇。アジアを席けんした元(中国)の大軍は、2度に渡り九州北部を襲撃。しかし元軍は暴風雨に遭って大打撃を受け、日本は難を逃れた。
文永の役。弘安の役(弘安4年、1281)
延元元年(1336) 多々良浜合戦。東区の多々良川河口で、足利尊氏が肥後・菊池軍を撃破した。
永享4年(1432) 『九州軍記』に「6月15日博多津櫛田祇園社の祭事あり、三社の神輿沖の浜へ御幸の後、山の如く12双の作り物を組み、上に人形様のものを据えてこれを棒もて舁き行」とあり。
康正年間
 (1455〜1456)
時の探題大内義隆の命により博多祇園山笠12本のうち周防(山口県)の山口に6本を頒ち、以後博多山笠は6本となった。
天文19年(1550) ザビエル博多に来る。
天正15年(1587)
  太閤町割り
太閤豊臣秀吉の博多町割り。秀吉が九州征伐のおり、焼け野原となった博多の町を博多の豪商、嶋井宗室神屋宗湛に命じ、町づくりをする。大宰府の方角を流の上手として基準線の方角を決めた。現在の大博通りの博多小学校横あたりを一小路、一番最初に作った通り。
博多部七流の始まり。
秀吉の博多復興にあたっては、いわゆる四水、四応、四神相応の計画を立て、博多の町を七条の袈裟になぞらえる七七四九願をあらわし、博多を一山の七堂伽藍にたとえた。
七流・・呉服町流、東町流、西町流、土居流、須崎流、石堂流、魚町流
七小路・・一小路(市)、中小路、金屋小路、奥小路、古小路、浜小路、対馬小路
七厨子・・奥堂厨子、普賢堂厨子、瓦堂厨子、萱堂厨子、脇堂厨子、観音堂厨子、文殊堂厨子
七堂・・辻堂、奥堂、石堂、普賢堂、瓦堂、茅堂、脇堂
七口・・浜口、象口、瀧口、川口、堀口、蓮池口、渡唐口
七観音・・大乗寺観音、妙楽寺観音、観音寺観音、聖福寺観音、乳峯観寺観音、龍宮寺観音、東長寺観音
七番・・竹若番、箔屋番、蔵本番、奈良屋番、釜屋番、麹屋番、倉所番
  現在でも、いくつもの名称が続いている。
慶長5年(1600)
  中洲誕生
黒田長政、中洲中島町に中島橋を架ける。博多と福岡を結ぶ。
当時の中洲は菜の花畑で、のちに中洲河原で芝居や大相撲が行われた。
慶長7年(1602) 関ヶ原の役の功で筑前52万3000石を賜り、名島城に入城した黒田長政が、太宰府政庁時代の筑紫館(平安時代に鴻臚館)のあった福崎に築城、福岡城に移る。地名を祖先の地、備前・福岡にちなんで福岡と改めた。
寛文2年(1662) 小山町当番、武田信玄を作れリ。竹若番堅粕屋藤三郎の家に倒れ掛かり、山崩れ、家屋は焼失せり。
寛文8年(1668) 山笠舁筵および絹女着物金紗類金入縫入自今禁止せらる。
寛文9年(1669) 最古の山笠番付。衣笠合戦(金屋町)、義経鈴の御崎にて貝取(御供所町)、白川合戦(市小路下ノ番)、大職冠(釜屋町)、摩屋合戦(洲崎町)、上瑠璃(中小路町)
貞享4年(1687)
  追い山笠の始まり
「追い山」の発生。『博多土居町に助右衛門と言う者があり、娘を堅町幾右衛門の息子に嫁がせしが、正月幾右衛門の息子夫婦が嫁の里に初入りして来たところ、そのころの風俗として幾右衛門の息子に土居町の若者が水桶を担がせ歩き廻らした事を堅町の者が聞き、土居町の助右衛門のところに押しかけて大喧嘩となり、その場はとにかく納まりしもこの夏の祇園山笠は土居町が二番山、三番山が宮内町で堅町の組なり』(櫛田社鑑)。当時の山笠は「昼食い」という休憩もあり、競争はしていなかった時代。三番山の堅町の者は正月のうらみがまだ残っていたので、二番山が東長寺で山を止めて「昼食い」をしていたとき、ここぞとばかりに勢いたち追い越そうとした。二番山は抜かれてなるものかと走り出した。町の人はこれは面白いと評判になり、追い山笠の起源と言われる。
元禄3年(1690) 博多の人口19,468人。男11,138人、女8330人。
元禄13年(1700) 五月博多町々より疱瘡立願の山笠を作る
宝永5年(1708) 公命により本年より一番、三番、五番を修羅(しゅら)、二番、四番、六番を鬘(かずら)に作らしむ。差し山と堂山の分け
享保8年(1723) 奈良屋番が人形に高師直を作る。蛇が師直の首に巻き付く。「追い山」の後、舁仕舞山笠倒れ高師直人形破損せり。
享保17年(1732)
  享保の大飢饉
今年、国中田方虫にて飢饉死する者多し。
現在も中洲二丁目博多川河畔で供養を続けている。
享保18年(1733) 前年より打ち続き損亡今年一統疫病流行死亡者多し。四民難儀甚し、今年山笠小人形となれリ。
元文2年(1737) 博多の人口13,469人。内訳は男6,250人、女4,962人、男子供1,210人、女子供890人。他に出家、山伏など。
宝暦2年(1752) 今年、三苫惣吉初めて居住の二番山作る。是より段々山笠作る。
宝暦9年(1759) 六番山竪町下のあと、疱瘡除けの祈願のため鰯町下、浜口浜、対馬小路中下が山笠を舁き入れる。
明和8年(1771) 六番山笠当番須崎町中、台に車を付けしが所々にて庇を損じ、その上怪我人も有りて取り除く。  山笠を速く走らせようと車をつけたが上手くいかなかった。
天明4年(1784) 金印発見。東区志賀島で発見された。印面には「漢委奴国王」(かんのなのわのこくおう)と刻まれ、「後漢書」記載の漢の光武帝が倭奴国に贈った印でないかと言われてる。昭和29年に国宝に指定され、福岡市博物館に収められている。
天明7年(1787) 山笠で笹竹を合図に振ること当年より始まる。
寛政7年(1795) 奥の堂赤間町角辺にて五番山洲崎町中に、六番山東町下が追い付き、六番山が舁き方を猶予したので無事に相済んだ。よって吟味の上、三貫匁をご称美として下さる。この頃は、山笠が追い付くと揉め事が多く起こっていたという。
寛政10年(1798) 6月10日夜、市小路下の四番山の前に吊るしていた提灯の火が山笠に移り、前の方の3分の1が焼け、山笠の人形は骨ばかり残る一大惨事が起こった。
享和元年(1801) 二番山鰯町下、恵比寿社前に山笠のうわ屋(山小屋)を作り、その中に山笠を置く。雨を防ぎことの外よろし。
文政元年(1818) 櫛田神社に世界最古の公立図書館といわれる櫛田文庫が開設された。封建時代、学問は武士階級だけのもの。そんな時代に町人の中で向学心に燃えるものに勉学の場を提供した。5年後、商人が勉学に励むと家業を怠ると藩が閉鎖命令を出した。
天保年間
(1830〜1843)
中洲北端、浜新地に大歓楽境ができる。黒田藩の景気振興策で、芝居小屋や茶屋ができ、相撲興行や富くじで大賑わいになる。
天保5年(1834) 商売繁盛の守り神として國廣神社が設立される。(現福岡市博多区中洲5-6-7)
筑前一ノ宮住吉神社の末社
弘化4年(1843) 中洲に福岡藩精錬所ができる。
嘉永元年(1848) 清道旗のはじまり。東町下よりはじめて櫛田社内に建つ。
明治4年(1871) 廃藩置県。福岡藩は福岡県となる。
明治5年(1872) 11月、正月の松囃子、6月山笠をはじめ、その他の作り物の類大小に不拘一切癸酉の年(6年)より禁止の御達出る。
明治7年(1974)
  文明開化
東中洲に最初の常設芝居小屋”永楽社”が開場。さらに明治座(明治36年)、川丈座(明治37年)、寿座(明治37年)、九州劇場(大正元年)などが開場して、博多演劇界の中心地帯となる。
明治8年(1875) 許可を得て山笠を再興したけれども岩波屋形もなく、人形又衣装も粧わず僅かに其形容を残すのみの山笠なり。6月15日朝山笠櫛田入りの頃俄に万行寺出火残らず焼ける。櫛田入りは午前11時頃あり。ゆかた山。
明治10年(1877) 元福岡藩精錬所跡に”福岡病院医学校”(九州大学病院の前身)が設立。福岡勧業試験場(明治12年)、福岡農学校(明治13年)。中洲が、文化・文明の中心として栄える。
明治12年(1879) 紀元節の日から松囃子三福神が復活し、どんたくが誕生。
福岡商法会議所(商工会議所)が出来る。市の施設のようなものが殆ど中洲に出来る。
明治16年(1883) 11年ぶりに本格的山笠が再興したが、電信線架設のため、以前より低し。旧6月10日より15日まで山笠奉納。
明治20年(1887) 九州・沖縄八県連合共進会が中洲で開かれ、以降中洲は急激に発展していく。
明治21年(1888) 私立号砲株式会社が誕生し、「ドン」と大砲によって時を知らせた。
明治22年(1889)
  福岡市誕生
福岡市制を施行(人口48,261人)
博多部と福岡部が合併し、福岡市となる。市名決定では、”福岡市”にするか、”博多市”にするかで、議会でもめ、議長裁定の1票で福岡市となった。
九州鉄道会社発足(現JR)、博多〜千歳川(筑後川)間、開業。
福岡測候所開設。福岡初の測候所。場所は那珂郡春吉村中洲(現中洲1丁目)にあった県勧業試験場の一室。現在の大濠公園に移ったのは昭和13年。翌年、福岡管区気象台になった。
明治24年(1891) 許斐氏年表によると、この年から新暦7月10日に山笠を建てたり、博多の有志協議の上電信柱を高め、山笠を高めんことを当局に陳情す。
明治29年(1896) 中洲券番を開設。芸者数500人以上。
明治31年(1898) 曽我部知事の提議により山笠を中止せんとして市会の問題となり、九州日報主筆古島一雄等の仲裁で継続する。しかし、電信電話のため台上九尺の山笠建つことになる。
今の飾り山笠のように高い山笠を舁いていたが、電線を切ったりして問題となる。「それじゃ山笠を低くしよう」となった。飾り山笠と舁き山笠の分離。また、裸で野蛮だとなり、今のように揃いの水法被を着るようになる。
電話開通。福岡電話交換所の局社竣工(現Nパサール中洲4丁目)当初の加入者は197口だった。
明治32年(1899) 博多湾開港。博多湾は古来より天然の良港として朝鮮半島、中国大陸への窓口だった。しかし徳川幕府の鎖国政策で海外貿易を禁じられる。この年に対外貿易港として一切の制限なく活躍できるようになった。
明治38年(1905)
  雷騒動
本年ならし舁きの際、福神流が雷を太鼓と間違えて舁き出し、後の山も時間を無視して祭りは大混乱、紛糾する。福神流の山(当番二番山上店屋町)は責任をとって取崩され、5本にて追い山をなす。以後、不参加を決めた。日露戦争中なり。満州にて山笠をなす。大正2年、福神流は能当番のみに。
この頃より、追い山時間の計測が始まる。
明治39年(1906) ガス初点火。2月22日。博多瓦斯株式会社(西部ガスの前身)が初めては博多の町にガスを供給した。最初の利用者は620戸、約2000灯で大半は灯火用だった。
明治43年(1910) 福博電気軌道、営業開始市内電車が走る。
明治44年(1911) 新暦7月1日”注連おろし”と定める。今の7月1日から15日までとなる。
大正2年(1913) 博多最初の常設活動写真”世界館”が開場。電気館(大正2年)、バッテン館(大正11年)、喜楽館(大正12年)、友楽館(大正12年)などが開場して、映画の街となる。
大正14年(1925) 玉屋呉服店(福岡で初の本格的デパートメントストア)新装開店。
昭和8年(1933) 昭和天皇の即位を記念して東公園に福岡市動植物園が作られた。戦時下の19年に閉園。昭和28年に現在の南公園に再開された。
昭和13年(1938) 4月21日イタリア訪日使節団来福。一番山(倉所町)二番山(下西町)三番山(大乗寺前町)が櫛田入りを披露。
昭和18年(1943) プロ野球球団「西鉄軍」誕生。
昭和19年(1944) 戦局悪化。当局と折衝の末、11、12、15日に制限して挙国戦勝に順応。9月、映画「陸軍」に山笠出動す。
昭和20年(1945) 6月19日、福岡大空襲により博多の町は殆ど全焼する。山笠中止となる。8月15日終戦。
昭和21年(1946)
  戦後復興
5月26日、奈良屋校区の「第一次博多復興祭」で三福神の傘鉾、どんたくとともに、子供山笠舁き回る。山笠の標題『みんなの博多 みんなで復興』
サザエさん」誕生。作者、長谷川町子。
創刊間もない福岡の夕刊フクニチ新聞の連載4コマ漫画で登場。
昭和23年(1948) 山笠の本格的復活。舁き山笠7本が櫛田入りを披露、飾り山笠5本建つ。
第3回国体、福岡で開催。
昭和24年(1949) 4月8日、博多祇園山笠振興期成会(落石栄吉会長、大黒流)結成。
サマータイムのため、午前5時59分、一番山笠櫛田入り。
会結成を機に当時、土居流の加勢町と参加していた東中洲が中洲流として誕生。
舁き山笠は、大黒流、呉服町流、西町流、恵比寿流、東町流、土居流、福神流、櫛田流、岡流、浜流、築港流、中洲流が参加。
飾り山笠は、櫛田神社、麹屋町、中洲、新天町。
どんたくを新憲法発布を祝して、5月3・4日とする。
昭和25年(1950) 千代流が期成会に加入。この年に改めて奉納の順番を決め、以前の慣行に従って1番づつ繰り上がることを確認した。
朝鮮戦争勃発。
昭和26年(1951) 西鉄ライオンズ球団が誕生。昭和33年に、日本シリーズ(対巨人)で3連敗後4連勝で優勝した。31年、32年、33年と日本シリーズ3連覇達成。
ラジオ九州(現・RKB毎日放送)が九州初の民放として本放送を開始。全国で4番目。
昭和27年(1952) 本年福岡部も合わせて舁き山笠14本、飾り山笠12本建つ。過去最多の本数。
昭和28年(1953) 櫛田神社秋季大祭、博多おくんち行事を開催する。
昭和29年(1954) 3月19日、博多祇園山笠が国指定の無形文化財となる。
映画館オールナイト興行の始まり。今では当たり前のオールナイトは、追い山見物の観客のために、博多の映画館が始めた。中洲地区だけで17の映画館があった。
マリリン・モンロー来福。日活ホテル(現城山ホテル中洲5丁目)に宿泊。
昭和30年(1955) 1月、博多祇園山笠振興期成会を博多祇園山笠振興会に改組。15日午前3時の祇園例大祭再興。
昭和33年(1958) 博多祇園山笠振興会会長に井上吉左衛門(中洲流)氏就任。
昭和34年(1959) シカゴで開かれた国際見本市に飾り山を展示。
昭和36年(1961) 本年舁き山笠9本、飾り山笠8本。本格的桟敷席が完成。
どんたくが、福岡市民のまつり「博多どんたく港まつり」として開催される。
昭和37年(1962) 福岡市の要請で「集団山見せ」が始まる。13日午後で、当初は昭和通(蔵本町交差点〜天神)を通り、昭和57年から明治通(呉服町交差点〜市役所)に変更。参加した山笠は、中洲流、西町流、千代流、恵比寿流、呉服町流、櫛田流、東町流、大黒流であった。
昭和39年(1964) 飾り山笠の上川端通が本年から櫛田入りを披露。福神流が能当番を返上。以後、宮総代が担当。
昭和41年(1966) 博多の町界町名整理で山笠の区分けが混乱。土居流は保存会で運営。呉服町流は解散し、東町流と東流に、西町流は西流に再編成。
昭和46年(1971) 戦後、復活し途絶えていた子供山笠が寿通で誕生。その後、新天町、千代流と出来る。寿通の子供山笠は、後の4小学校統廃合のときに、博多流と改称。
昭和47年(1972) 福岡市、政令指定都市になる。
昭和50年(1975) 本年舁き山笠7本、飾り山笠9本。
5月12日、大濠公園で開催中の「福岡大博覧会」に七流合同で舁き山笠を舁き入れる。合同で山を舁くのは初めて。
山陽新幹線岡山〜博多間開通。
博多町人文化勲章創設。博多町人文化連盟が博多の歴史、伝統を守り育てている個人や団体に”もろうてつかあさい”(貰ってください)と贈るユニークな勲章。理事長がひな壇の下から壇上の受賞者に感謝状を手渡す。
昭和51年(1976) 第1回中洲まつりを開催する。
天神地下街完成。
昭和53年(1978)
  福岡大渇水
  天覧山笠
福岡市は5月から給水制限。(翌年3月まで)深刻な水不足になる。山笠は水確保に努力、各地からの応援水により、例年通り奉納す。
10月22日、東京で開かれた「会議所制創立100年全国郷土祭」に参加。明治神宮外苑・絵画館前に飾り山笠を展示。国立競技場に七流合同で舁き山笠を持ち込む。昭和天皇臨席のもと山笠を披露。舁き山笠が初めて博多を出る。
昭和54年(1979) 2月3日、国指定重要無形民族文化財となる。
9月21・22日、東京・国立劇場で「日本民謡まつり」に、振興会役員らが参加。「博多祝い唄」を披露する。
福岡市内電車全廃。
昭和55年(1980)
  初の海外遠征
9月20日、ハワイ・ホノルル市で開かれた「アロハ・ウィーク・フェスティバル」に参加。ハワイ側の実行委と打ち合わせの際、締め込みは”NO”と難色を示したが、振興会側が「ハワイのカメハメハ大王だって同じじゃないか」と主張、締め込みOKとなる。
昭和56年(1981) 福岡市営地下鉄1号線部分開業(天神〜室見間)
昭和59年(1984) 四半世紀にわたり会長を務めた井上氏が辞任。中村茂(恵比寿流)氏が三代目会長に就任。
博多第一中学校と第二中学校が合併し博多中学校が誕生。
昭和62年(1987) 樋口武之助(大黒流)氏が四代目振興会会長に就任。
中洲まつりに「國廣女みこし」が誕生。
昭和63年(1988) 5月、オーストラリア・ブリスベーン市のオーストラリア建国200年記念「国際レジャー博覧会」と、ニュージーランド・オークランド市(福岡市と姉妹都市)の「ジャパン・ウィーク」に参加。
福岡ダイエーホークス、誕生。
平成元年(1989) 7月8日、福岡市・シーサイドももちで開催の市制100年記念「アジア太平洋博覧会(よかトピア)」に七流揃って舁き入れる。
平成2年(1990) 9月13日、大阪・鶴見緑地で開かれた「国際花と緑の博覧会」に参加。舁き山笠2本に舁き手総数1,000人。
とびうめ国体、福岡で開催。
平成3年(1991) 6月28日、福岡サンパレスで盛大に「博多祇園山笠750年式典」を挙行。
平成4年(1992) 4月、五代目会長に井上雅實(中洲流)氏が就任。二代目会長の井上吉左衛門氏の子息で、親子二代の会長就任。
平成5年(1991) 日本初の開閉式屋根の福岡ドーム球場が出来る。
平成6年(1994) 7月7日夜半、飾り山笠「新天町」から出火、まもなく全焼した。200年来、無かったことだった。
7月24日、京都市で行われた平安建都1200年祭の「全国祇園祭山笠巡行」に参加。
平成7年(1995) 9月3日、福岡市で開かれた世界ユニバーシアード福岡大会の閉会式のフィナーレに登場し、福岡ドームの中を駆け、参加各国の選手と別れを惜しんだ。
平成8年(1996) 六代目振興会会長に石橋清助(土居流)氏就任。
キャナルシティー博多オープン。
平成10年(1998) 中洲流50周年を迎える。11年に記念誌、ビデオを製作発刊。
博多部の四校の小学校(冷泉、奈良屋、御供所、大浜)、統廃合により博多小学校が開校。
平成11年(1999) 下川端再開発「博多リバレイン」オープン。「博多座」オープン。5月末、初夏を彩る風物詩”博多座大歌舞伎船乗り込み”が博多川で始まる。
福岡ダイエーホークスが、リーグ優勝。そして、日本シリーズも制覇する。
2000年もリーグ優勝。
平成12年(2000) 福岡市博物館で開かれた「九州・沖縄サミット福岡蔵相会合」に飾り山笠展示。
平成13年(2001) 七代目振興会会長に後藤久義氏(西流)就任。
世界水泳選手権大会の会場となったマリンメッセ福岡に飾り山笠展示。
平成16年(2004) 博多祗園山笠振興会創立50周年
 記念誌の刊行、式典祝賀会開催、
山笠が西日本文化賞、高円宮殿下記念地域伝統芸能賞を受賞する。
市民クルーズ「三都航路 博多・釜山・上海」に参加。上海、南京路で山笠を舁く。
平成17年(2005) 全国都市緑化ふくおかフェア(アイランドシティ)で山笠を舁く。
前年の受賞を記念し、地域伝統芸能全国フェスタ(秋田県酒井市)に出場、舁き山笠を展示。
ねんりんピック開会式(福岡ドーム)に飾り山かさとともに参加。出場者、関係者3万人で「手一本」を行う。
平成18年(2006) 八代目振興会会長に波多江五郎氏(恵比寿流)就任。
<参照> パンフレット 『博多祇園山笠』 (博多祗園山笠振興会発行)
中洲400年の歩み (中洲町連合会発行)


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